自己紹介

hobolilyface

1957年2月、秋田県の田舎に生まれました。

小学校の頃から、僕は絵を描くことが大好きでした。通信簿の図画・工作には、いつも最高の評価が並んでいました。絵を描いているときだけは、平凡な自分ではない、何かに夢中になれる特別な自分になれた気がしました。

中学では、卓球に打ち込みましたが、無理がたたって急性腎炎で4ヶ月も入院することに。病室で流れるラジオから、高田渡さんのフォークソングが聞こえてきました。「俺もいつか、こんな風に生きるんだ!」そう心に決めましたが、生まれつきの音痴と人見知りのせいで、わずか2週間で挫折。この頃、僕の心を慰めてくれたのは、美術の教科書に載っていた印象派の画家たちの絵でした。

高校に入学し、美術部で油絵に没頭。デッサン教室にも通いましたが、学科の勉強は二の次でした。勉強するふりをしてはラジオの深夜放送を聴き、小説の世界に逃げ込んでいました。そんな僕でも、なんとか和光大学の人文学部・芸術学科に合格。19歳で初めて東京に出て、美術漬けの大学生活が始まりました。

刺激に満ちた日々でした。美術教育で有名だった藤沢先生のゼミに入り、マルセル・デュシャンを真似て便器を置いたり、現実と非現実をテーマにした作品を制作したり。学生生活を謳歌し、将来はデザイナーとして活躍するんだ、と希望に満ちていました。

しかし、社会は甘くありませんでした。卒業後、藤沢先生の紹介でパッケージデザインの会社に入社。しかし、社長は安井賞を受賞するほどの厳格な画家で、少しでもミスをすると定規が壊れるほど癇癪を起こす人でした。理想と現実のギャップに耐えられず、たった1年で退職。それから、様々な会社を10社以上も転々とすることになります。

なぜ、僕はこんなに職を転々としてしまうのだろう? 苦しい日々の中で、僕は自分の本質に気づきました。僕は一つの仕事にのめり込み、完璧を目指そうとする不器用な人間なのだと。それは短所でもあり、長所でもある。この不器用な性分こそが、僕のアイデンティティなのだと、ようやく受け入れることができたのです。

絵を描くこと、フォークソングを聴くこと、本を読むこと。この3つだけは、どんなに苦しい時も、僕のそばに寄り添ってくれるかけがえのない財産でした。そして、最近5年勤めた会社を辞める決意をしました。「もっと僕にはやるべきことがある」。そう強く思ったのは、ある画家との出会いがあったからです。

グランマ・モーゼス。彼女は40代で油絵を始め、本格的に活動したのは70代から。101歳で亡くなるまで、生涯現役で絵を描き続けた画家です。

彼女の生き方に、僕は強く心を揺さぶられました。今、僕が絵に向き合う時が来たのだと。社会的な肩書きも、受賞歴も何もない。それでも、絵を描くことをずっと続けてきたこの気持ちを、何らかの形で表現したい。ここ『68歳からのデジ絵ライフ』で、皆さんとその喜びと苦悩を分かち合っていけたらと思っています。
よろしくお願いします。